2009年3月29日日曜日

眞鍋呉夫句集

雪女と月光
眞鍋呉夫句集『月魄』を読む

                       ・・・高山れおな



季語は雪月花の三つがあればいいと喝破したのは、安東次男だったか高橋睦郎だったか。眞鍋呉夫の俳句を読んでいてそんな極論を思い出したのは、多彩な季語を詠み分けようとする態度が眞鍋には希薄で、まさに雪月花に収斂してゆくような比較的少数の偏愛の季語を、表現の中で掘り下げる行き方を採っているのがあきらかだからだ。そもそも眞鍋の三冊の句集を並べてみるがいい。第一句集『花火』(*1)、第二句集『雪女』(*2)、第三句集『月魄(つきしろ)』(*3)――つまり句集名のうちに「花」「雪」「月」の語が含まれているのである。もちろん、日米開戦の年の九月、遺書のつもりで出版したという第一句集が『花火』と題されていたのは偶然で、第二句集あるいは第三句集を編む時点で、ひとつその偶然を生かして句集名で雪月花を揃い踏みさせてやれ、というアイディアが浮かんだのではないかと思う。『月魄』の「あとがき」には、

集名を『月魄』と名づけた理由の第一は、私が青年時代以来、どちらかといへば、太陽よりも月のはうが好きな夜行動物だからである。第二は、漠然とではあるが、この日頃、この巨大で無限定的な宇宙も、私のやうに孤独で無骨な極微の存在とその運動によつて成立してゐるだけではなく、間もなくその巨大な宇宙の象徴としての「月魄」と一体化する日がくるにちがひない、と思つてゐるからである。(*4)

とあって、もちろんこれはこれで本当のことに違いあるまいが、一方で人知れぬ悦びとして雪月花の文字の組み込みが仕掛けられたものであろう。一九九二年に刊行された『雪女』は、第三十回藤村記念歴程賞と第四十四回読売文学賞を相次いで受賞して広く話題にもなり、知る人ぞ知るこの小説家を俳諧国中の人として認知させることになった。まだ、俳句をはじめて数年だった評者も、かなりの興味を持って読んだ記憶がある。『雪女』の俳句は古格にかなった洗練された作風を示しながらも、その本質は文学青年風なロマンティシズムにあり、上記のような季語に対する態度からしても、未だ俳句的語法に完全に馴染めずにいた不熟の読み手にも取っ付き易かったものと思う。当時書き入れたしるしを見ると、

刺青の牡丹を突つく鱵かな
  ⇒「鱵」に「さより」とルビ

という句にぞっこんであったらしい。

若水の捩れて煙をあげにけり
  ⇒「捩」に「よぢ」とルビ
いのち得て恋に死にゆく傀儡かな
  ⇒「傀儡」に「くぐつ」とルビ
花冷のグラスの脚の細さかな
  ⇒「花冷」に「はなびえ」とルビ
竹皮を脱いで光をこぼしけり
月光に開きしままの大鋏
亀鳴くと喚びしあとのさびしさよ

  ⇒「喚」に「をら」とルビ
糸吐いて透きゆく蠶ひと恋し
  ⇒「蠶」に「かいこ」とルビ
露の戸を突き出て寂し釘の先

などの句にも二重丸が付いていて、なるほどこれらの句に影響を受けたことには身の覚えがあるから、今となっては多少複雑な気分がする。

花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく
  ⇒「花冷」に「はなびえ」とルビ

この句集で最も有名なはずの掲句には、なぜかしるしが付いていない。こういうのは、いかにもな物語性を喜ぶ人と忌避する人に分かれそうだけど、例えば眞鍋の短編「ソラキガエシ」(*5)にはこの通りのことが書かれているわけで、小説家の俳句が小説風なのを批判しても仕方がないのだろう。現在の評者には、

現身の暈顕れしくさめかな
  ⇒「現身」に「うつしみ」、
    「暈顕」に「かさあらは」とルビ

あたりがとても面白い。花粉症などで立て続けにくしゃみをした時に、頭がだんだんぼおっとなってくるが、あの感じをいわば外からの視線で「現身の暈顕れし」と捉え返したのであろう。正岡子規の〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉の悲愴かつ諧謔的な自己客観視に通うところもありそうだ。もちろん、こちらはただのくしゃみだから悲愴というのではないけれど、自分のものでありながら必ずしも意のままになるわけではない肉体の不気味さと、その不気味な肉体を纏う形で現に自分が存在してしまっていることの淋しいような嬉しいような馬鹿馬鹿しいような気分が、巧みに表現されている。

『雪女』のあと眞鍋は、『眞鍋呉夫句集』(*6)という文庫版の選集を出していて、そこには『花火』『雪女』からの抄録に加え、『雪女』以後の未刊作品も収められているらしい。ただし、評者はその本は見ていないので今は置く。第三句集『月魄』は、『雪女』以後ではなく、この選句集が出た二〇〇二年以後の作から二百十三句を収めている。一頁一句組はこれまでと同じながら、版型は大ぶりな菊判でまことに堂々としたたたずまい。前句集同様、雪女の句があり、傀儡の句があり、あれこれの季語で桜を詠んだ句もまた多い。

青梅雨やうしろ姿の夢ばかり
青蚊帳や生木を裂いたやうな肌
古蓆立ちあがりたる野分かな
月の前肢をそろへて雁わたる
  ⇒「肢」に「あし」とルビ
時雨忌やそよぎはじめし燠の灰
またたいて枯野の光ふつと消え
音ならぬ音して雪の降りしきる
寒立馬肌触れあへば眼を細め
鬣の根に残りをり雪の粒

「露草」「釘隠」「白桃」「青鷺」「湧水」の五章に分かれたうちの「露草」の章より。主題的な繰り返し感は別にして、いささかの怪奇趣味を含んだ物語性といい、世界の細部に沈潜してゆく感覚性の冴えといい、前句集からの衰えは感じられない。とりわけ、〈月の前肢をそろへて雁わたる〉は、三島由紀夫が俵屋宗達の魅力を評して、装飾性と写実性とは楯の両面であると云々した言葉を連想させる秀逸。実際この句に描き出されている情景は現実の正確な描写と言ってもよいのに、読者にはむしろ装飾性の強い絵画を見せられたような感触が残る。その理由のひとつはもちろん、月と雁の組み合わせが、文学と美術を問わず中国の古典文化にまでさかのぼる典型的なクリシェを構成しているため。もうひとつは、「月の前」「肢をそろへて」という限定が、現実の視覚には有り得ないような明示性を喚起するためであろう。輪郭線というのは平面美術における約束事であって現実世界には存在しないわけだが、いわばこの句の内部は輪郭線によって文節化されているのである。

〈時雨忌やそよぎはじめし燠の灰〉は、火鉢や囲炉裏で暖をとった経験がほとんど無い評者などには少しばかり難解な句である。真赤になった燠の周りに熱せられた空気の流れが生じ、そこに火鉢の灰がかすかに飛ばされてゆくのが見えるということだろうか。時雨忌(=芭蕉忌。陽暦では十一月下旬)の頃の肌にしのび寄る暗さと寒さ、火鉢の中の熱と光、魅入られたように火を見つめる放心――そんな時間が、「そよぎはじめし」の一語によって繊細に捉えられている。

〈寒立馬肌触れあへば眼を細め〉もまた「月の前」の句にも似た明晰な絵画性を帯びている。しかし、「月の前」の純客観的な叙法に比べると、「寒立馬」には寓意性が強く出ているのは隠れもない。眞鍋の『露のきらめき――昭和期の文人たち』(*7)というエッセイ集には、その文学と生き方の双方に兄事してやまなかった檀一雄をはじめとして、矢山哲治、島尾敏雄、佐藤春夫、川上一雄、保田与重郎、佐々木基一など有名無名三十人あまりの文士たちとの交流が書きとめられている(俳人では加藤楸邨と森澄雄の名が見える)。その付き合いの濃厚さは、彼らにそれを許した文学の権威や理想が消滅した現在では地を払ってしまった類のものだが、眞鍋が記すところの行間にはしばしばそうした人間関係が醸し出す恍惚感のごときものが揺曳する。「肌触れあへば眼を細め」のような表現を、弱々しい感傷と誤解すべきではないだろう。感傷というならそれは孤独や悲惨が裏映りした、かなり激しい感傷なのである。

約束の蛍になつて来たと言ふ
初夢はあはれ顔なき汝が乳房
落し角跳ねて落ちゆく月の崖
遮断機のむかうの我もかぎろへる

「釘隠」の章より。“顔なき乳房”の痴情というか放埓ぶりが凄い。「約束の螢」は一句だけでも鑑賞できるが、作者の脳裏には前出『露のきらめき』に見える檀一雄の俳句があったはずだ。それは、檀の最初の妻・律子が死んだ時に詠んだ〈国破れ妻死んで我庭の蛍かな〉という句で、佐藤春夫はこの破調の句を前書に引きながら「白昼杜鵑(とけん)」という弔詞をしたため、当時、福岡県のある山寺に身を寄せていた檀に送った。この佐藤の励ましもあって檀が、着手にためらっていた『リツ子・その愛』『リツ子・その死』(*8)にとりかかることになったいきさつを記すあたりは、『露のきらめき』の中でも筆致が最も熱を帯びた部分である。

魂まつり兄は鉄底海峡より
  ⇒「鉄底海峡」に「アイアンボトム」とルビ
我はなほ屍衛兵望の夜も
  ⇒「屍衛兵」に「かばねゑいへい」とルビ
凩やにはかに増えし象の皺
まかじきの嘴の切口霜を帯び
  ノモンハン事件より六十年後の遺骨収容
鉄帽に軍靴をはけりどの骨も
空蝉やひとしからざる背の罅

「白桃」の章で目立つのは戦争を詠んだ句の多さだ。一句目の「鉄底海峡」と二句目の「屍衛兵」についてはそれぞれ左注がある。すなわち〈鉄底海峡はフィリピン・レイテ島とミンダナオ島間の海峡の通称 「大東亜戦争」末期には わが国の「軍艦の墓場」だといはれてゐた〉のであり、また、〈「大東亜戦争」当時の陸軍には 戦死者を荼毘にすることが可能な場合には 昼夜をとはずその棺の前に衛兵を立てることがあり これを屍衛兵と称してゐた〉とのことである。両句とも趣向の点で取り立ててすぐれているわけではないが、「鉄底海峡」「屍衛兵」の両語には魅力がある。しかし〈鉄帽に軍靴をはけりどの骨も〉の衝撃力に比較すると、まさにその語彙に頼ったところが弱点に見えてしまう。〈空蝉やひとしからざる背の罅〉も、すでに見た「寒立馬」の句と同様に客観的な叙述の中におのずからなる寓意性を帯びている。阿波野青畝の〈ふたたびは帰らず深き蝉の穴〉(*9)なども思い合わされる。

月光の沁みしが燻る焚火かな
  ⇒「燻」に「いぶ」とルビ
おくれ毛の影大いなる傀儡かな
花冷の水が縄綯ふ川の中
姿見にはいつてゆきし蛍かな
短夜のルーペでさがすチチカカ湖
煙突にあはれ枝なき良夜かな

「青鷺」の章より。〈月光の沁みしが燻る焚火かな〉は、月の光を湿度として読み替える視角が新鮮だ。〈おくれ毛の影大いなる傀儡かな〉は、俳句におけるライティングの妙。〈花冷の水が縄綯ふ川の中〉は、深い川の中に出来た小さな渦巻きを詠んだものだろうが、細やかな着眼をさらりと言いおろして素晴らしい。〈短夜のルーペでさがすチチカカ湖〉には、〈チチカカ湖はペルーの東南部に位置し ボリビアとの国境線によつて二分されてゐる〉との左注がある。琵琶湖の十二倍以上の面積がある大湖であり、標高は三千八百メートル余と富士山よりも高い。インカの創造神話のうちにはこの湖を舞台にしたものがあるという。夏の夜の逸興に世界地図でチチカカ湖を探しているとは、ペルーの古代史の本でも読んでいるのであろうか。この句の面白さは、ひとつには「ちちかかこ」という音韻の魅力に由来している。チチ=父、カカ=母、コ=子とまで分解するのは余計かも知れぬが、確かにそこにはこれらの語が隠されているのだし、さしもの大湖も地図上では豆粒ほどに描かれているのを老眼をしばたたかせながら探せば、だんだん視界がチカチカしてくるのに違いない。「ちちかかこ」は、このチカチカというオノマトペへの連想も孕んでいる。インカの悲史という背景は歴史小説集(*10)も持つ眞鍋らしいロマンティシズムへと繋がり、一方、特異な音韻は眞鍋の俳句に総じて希薄なユーモアをもたらす効果をあげている。

かまくらの灯りて青く透きとほり
真夜中に起きて刺しあふ傀儡かな
犯人は月光と言ふ親殺し
雪をんな裏階段をのぼりくる
永へてわが為に哭け雪女
  ⇒「永」に「ながら」とルビ

終章である「湧水」の章は、死への傾きが強い。中でも〈永へてわが為に哭け雪女〉は、数多くの雪女の句を詠んできたこの作者にしてはじめてなし得る絶唱である。前句集『雪女』の後記は、一種の季語論なのだが、そこに記された洞察はこの句の背後にある思いをよく説明している。やや長くなるが一部を引用しておこう。

俳句の歳時記には、まま、不思議な季語が残っている。冬の季語としての「雪女」「鎌鼬(かまいたち)」「竃猫(かまどねこ)」などはその数例にすぎぬが、宇宙ロケットによる月面への到達さえ可能となった今日、「雪女」や「鎌鼬」の実在を信じている人は、もうどこにもいまい。「竃猫」の存在が、すでに過去の事象として忘れられかけていることも、事実であろう。しかし、それではなぜ、

雪をんなこちふりむいていたともいふ  素逝
御僧の足してやりぬ鎌鼬  虚子
何もかも知つてをるなり竃猫  風生

というような句が、われわれの源泉の感情を揺り動かさずにはおかぬのか。

それには、なるほど、零落した信仰の残滓のせいだとか、雪を豊年の瑞祥として眺めてきた農耕的な心性のせいだとか、少なからぬ理由が考えられよう。しかし、だからといって、これらの季語を生みだすに至ったより根源的な契機が、われわれの生命の母胎としての自然への畏敬にほかならなかったことを見おとすならば、その眼は節穴にひとしい、と言われても仕方があるまい。

即ち、そういう本質的な意味では、「雪女」や「鎌鼬」や「竃猫」などは、時代錯誤的であるどころか、むしろ、最も未来的な可能性を孕んだ季語中の季語だ、といっても過言ではない。また、その本有の意義は、ほとんど上代の詩歌における歌枕の意義に相ひとしい。

掲句における「永へて」の一語には、齢八旬をはるかに超えた作者の死に対する意識と共に、「雪女」に「最も未来的な可能性」を見てさえいる独自の季語観もこめられているということになりそうだ。さらに言えば、「われわれの生命の母胎としての自然への畏敬」がそのまま「われわれの生命の母胎としての女性への畏敬」でもあるような眞鍋の女性観もまた、「雪女」という季語に対する執着の根拠になっているのであろうことは想像に難くない。

〈犯人は月光と言ふ親殺し〉は俳句ではまず見かけないモティーフの異様さに眼がゆくけれど、すでに『雪女』に、

親殺し子殺しの空しんと澄み

があり、この作者にあっては親子というモティーフを作品化するに際して、親殺し・子殺しの意匠が必要なのではないか、という予想に誘われる。断じてニュース報道に触発されての詠作ではなく、『オイディプス王』『メディア』以来の人間の関係性の悲劇が、耽美的な俳句と化したものに違いない。眞鍋の父のやや異常な死のいきさつを実録風に書いたとおぼしい短編「鳰の浮巣」(*11)は、この推定の傍証になるだろう。やや異常というのは眞鍋(彼は作中に実名で登場する)の父親は、母親が知人宅の留守を預かるためにしばらく家をあけていた間に心筋梗塞で亡くなり、死後数日して、それも母親ではなく、不審を感じて家にあがって調べた知人によって台所でこと切れているところを発見されているからだ。「チチシス」の電報を受け取った眞鍋は、出版社からの前借で金を作り、妻と共に生まれてはじめてのボーイング727で急遽、太宰府の実家に帰るのだが、顔を見ることを周囲に止められるほど遺体は腐敗が進んでいた。小説の最後の場面では、眞鍋は父親の幽霊と会話を交わしているのだから、細部にどんな潤色が施されているかは知れたものではないとはいえ、基本的に事実を踏まえて書かれている感触がある。

眞鍋に俳句を手ほどきしたのは、じつはこの父親であった。『月魄』所載の略年譜には、〈市井の遊俳として終始した父天門の影響で発句を作りはじめる。〉との記述が見える。「鳰の浮巣」に、焼香を済ませた眞鍋が父の部屋に入って感慨に耽る場面があるが、そこには吉岡禅寺洞の名が出てくる。

それはしかし、予想以上に平凡な、ありきたりの八畳間にすぎなかった。ただ、父の望みどおり、北側を除く三面が窓になっているので、昼間の眺めは格別であろうが、その夜は雨戸が閉めてあったから外は見えず、それだけに道具の少い部屋の中が妙に侘しく見えた。おそらく、この二三日の泊り客のために片づけたのであろう、目立つのは東側の壁ぎわに据えられた父のベッドだけで、その枕もとの壁に、

汐木をかかへてよろめいたもう年だといふか

父の青年時代以来の親友で、数年前に疎開地の桜井で物故した吉岡禅寺洞さんの半切であった。

すると、父はこの下に寝ていたのか。七十を越えても、なお汐木をかかえおこそうとしたのか。そうして力つきて倒れた揚句、禅寺洞さんのあとを追って「雲なき空」へ旅立っていこうというのか……

『雪女』や『月魄』の句が、すでに見たようにあえて古風を演じるようなところがあるのに対し、第一句集『花火』には新興俳句を読んでいる形跡があらわ。出版は一九四一年、著者は御茶ノ水の文化学院文学部に在籍する二十一歳という状況からして、そのこと自体になんの不思議もないのだが、島尾敏雄や阿川弘之、那珂太郎らと創刊した同人誌「こをろ」についての記述はあっても、俳句の研鑽の過程については情報が乏しかった。しかし、父親が禅寺洞の親友で、その父親に導かれて作りはじめた俳句なのであってみれば、新興俳句の影響はいよいよ以て当然すぎるというものだ。

秋空に人も花火も打ち上げよ
噴水の真上の蝶はもんしろてふ
あきかぜよランプをみがくひとに吹け
かなしみつのりくればしろぐつはきもあへず
螺旋階 青い手袋踏まれたり
  ⇒「螺旋階」に「らせんかい」とルビ
わが性はさびし運河に放尿す
  ⇒「性」に「さが」、「放尿」に「はうねう」とルビ
サーカスの道化観に来しわれも道化
  ⇒「道化観」に「だうけみ」とルビ
わがひとの不幸のほくろやみでもみえる
白壁に雨が降るなり旅のはて


草城、秋桜子、誓子、窓秋、赤黄男、鳳作……。たちどころにこれらの作者の影を感じ取ることができるだろう。それは個々の句の素材や叙法に限った話ではなく、連作が多い点にも現われていて、上記の花火や噴水、ランプなどは、それぞれの語をキーワードにした連作に含まれる句である。「ねむくなるうた 四句」などという可憐な作もあって、これはどういう時代精神の産物なのであろう。

国澄めり睡くなる海四方にある
南国に玻璃器ならべて商賈睡る
  ⇒「玻璃器」に「はりき」、「商賈」に「ひと」とルビ
風速計カラカラ廻り詩人の朝寝
枯木あり刧初の雲をめぐらしめ
  ⇒「刧初」に「ごふしよ」とルビ

眞鍋は一九四二年五月に応召して、下関重砲兵連隊に入隊、三ヶ月の教育期間を経て豊予要塞重砲兵連隊に転属し、佐賀の関沖の高島という無人島に駐屯したまま敗戦を迎えた。年譜によれば〈戦艦大和の最後の出撃〉を見送っているとのことで、「鉄底海峡」の句などに見えた“兄”とは実際の肉親ではなく、戦死者たちの象徴ということのようである。


(*1)眞鍋呉夫句集『花火』 原著:一九四一年 私家版/増補復刻版:一九九三年 沖積舎
(*2)眞鍋呉夫句集『雪女』 原著:一九九二年 冥草舎/新装版:一九九二年 沖積舎/『定本 雪女』 一九九八年 邑書林
(*3)眞鍋呉夫句集『月魄』 二〇〇九年一月二十五日刊 邑書林
(*4)眞鍋の三句集は、『雪女』の後記を除き、本文・後記類共に正漢字と歴史的仮名遣いで組まれているが、拙稿では煩を避け、常用字体で引用する。
(*5)眞鍋呉夫『飛ぶ男』(一九七九年 東京新聞出版局)所収
(*6)『眞鍋呉夫句集』 二〇〇二年 芸林21世紀文庫
(*7)眞鍋呉夫『露のきらめき――昭和期の文人たち』 一九九八年 KSS出版
(*8)檀一雄『リツ子・その愛』『リツ子・その死』 一九五〇年 作品社
(*9)阿波野青畝句集『宇宙』(一九九三年 青畝句集刊行会)所収
(*10)眞鍋呉夫『蟲の勇氣―西域小説集―』 一九七三年 財界展望新社
(*11)眞鍋呉夫『飛ぶ男』(一九七九年 東京新聞出版局)所収


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