2009年4月12日日曜日

俳句九十九折(31) 俳人ファイル ⅩⅩⅢ 橋閒石・・・冨田拓也

俳句九十九折(31)
俳人ファイル ⅩⅩⅢ 橋閒石

                       ・・・冨田拓也

橋閒石 15句

 
春月や水囁ける草の中
 
鴉啼く砂丘にて懐中時計とまり
 
淡水へはらわた返す泳ぎ去れと
 
柩出るとき風景に橋かかる
 
萩の露あつめて耳を洗うべし
 
わがいのち風花に乗りすべて青し
 
白魚のまぼろしや傘ひらくとき
 
蝶になる途中九憶九光年
 
故山我を芹つむ我を忘れしや
 
眉しろく虹の裏ゆく旅人よ
 
空蟬のからくれなゐに砕けたり
 
階段が無くて海鼠の日暮かな
 
体内も枯山水の微光かな
 
芹の水言葉となれば濁るなり
 
銀河系のとある酒場のヒヤシンス

 
 

略年譜
 
橋閒石(はし かんせき)
 
明治36年(1903) 金沢に生まれる
 
大正7年(1918)  病のため通学不能 病床で俳書に親しみ句作開始
 
大正14年(1925) 京都帝国大学文学部英文学科に入学
 
昭和7年(1932) 俳諧師寺崎方堂に師事
 
昭和21年(1946) 『俳諧史講和』
 
昭和24年(1949) 「白燕」創刊主宰
 
昭和26年(1951) 第1句集『雪』
 
昭和29年(1954) 第2句集『朱明』
 
昭和32年(1957) 第3句集『無刻』
 
昭和33年(1958) 高柳重信の「俳句評論」参加
 
昭和38年(1963) 第4句集『風景』 『ラムの思考様式』
 
昭和46年(1971) 第5句集『荒栲』
 
昭和53年(1978) 第6句集『卯』
 
昭和55年(1980) 随筆集『泡沫記』
 
昭和58年(1983) 第7句集『和栲』
 
昭和59年(1984) 『和栲』により、第18回蛇笏賞受賞
 
昭和60年(1985) 第8句集『虚』
 
昭和62年(1987) 第9句集『橋閒石俳句選集』
 
平成4年(1992)  第10句集『微光』11月逝去(89歳)
 
平成15年(2003) 『橋閒石全句集』
 
 


A 今回は橋閒石を取り上げます。
 
B 橋閒石は1903年に金沢で生まれ、1992年に89歳で亡くなっています。
 
A 句集が一応10冊あり平成15年には全句集が出版されており、学者でもあったため俳諧や英文学に関する著書も少なくありません。
 
B 俳句を始めたのは、1918年の15歳の時、病床で俳句に関する本を読んでいたのがはじまりであるそうです。
 
A どうやら俳句においては師に付かなかったようですね。
 
B 一応、俳諧の方には師として1932年に寺崎方人に師事しているわけですが、俳句においては師は存在しないということになるようです。
 
A 独学であるのかそうでないのか、よくわからないところですね。一応、旧派の出身ということになっているようですが。
 
B 本人は1951年に刊行された第1句集『雪』のあとがきで〈憶へば十五の秋、病床のつれづれに初めて俳書をひもどき、句めいたものを吐いて以来、曽て暫く連句に一人の先達を得たほかは、未だ一語の教を人に乞うた覚もない天涯漂泊の身である。心惹かれる誰人もなく、いづれの流派をも慊らずとしたのは、唯に不覇狷介の所為ばかりではない。夢を追うてやまない性のなせる業でもある。〉と記しています。
 
A また、どこの流派にも属さなかったのは、重い病を患っていた、という理由もあったのかもしれませんね。
 
B 『風景』のあとがきには〈厄介な病気につぎつぎ襲われて、生きのびられるとは、誰ひとり思わなかった。〉という記述もあります。
 
A あと、病により〈すっかり孤独癖がしみついていた私は、どの俳誌にも慊たらぬものを感じて飛びこむことができなかった。〉〈人はしばしば、私を孤高と評した。高はまったく当らないが、孤はみずから招いた罪である。〉とのことです。また、「関西俳句」という俳誌のバックナンバーの「俳句開眼 初めて俳句を知った頃」という文章では〈俳句だけのことを考えると、特に影響をうけたという先達は誰もいない〉という言葉も見られます。
 
B では、とりあえず第1句集から作品を見ていきましょうか。
 
A 橋閒石の第1句集である『雪』は、昭和26年の刊行で、昭和23年以前の作220句と、昭和24年以後の230句で構成されています。
 
B この『雪』の刊行時点で橋閒石はすでに48歳であったということになります。
 
A 昭和23年以前の作品を見ると、〈掌の卵のぬくみ春の霜〉〈答案の包重たく夕雲雀〉〈爪立ちて春宵の歌集抽き出だす〉〈春月や水囁ける草の中〉〈朝苺ホメロスの詩を読み初む〉〈雪渓を吹き上げられし蝶緋なり〉〈星青き夜を温室のメロン熟る〉などという作品があります。
 
B こういった作品だけを見ると、なんだかこの時点において既に俳句の生理というものを知悉してしまっているというか、ほとんど作品が完成してしまっているような印象がありますね。
 
A 〈一ところ畳のくぼむ夜寒かな〉〈状差に葉書一枚暮の秋〉などといった句を見ていると、それこそいくらか老狷なものすら感じられてしまいます。
 
B 他にも〈芙蓉咲いて蟷螂の子の薄みどり〉〈嘶に応ふ嘶月白し〉〈秋の湖真白き壺を沈めけり〉〈痛む歯に鶏頭の雨いつまでも〉〈遂に合はざる二つの道か星冱る〉〈氷上に氷塊青き影もてり〉などといった作品がありますが、これらをみても大変巧みです。
 
A こういった作品を見ると、単に老狷な側面のみだけではなく、それこそ「青春性」による息吹のようなものも感じられるところがあるようですね。
 
B 先程の「歌集」や「ホメロス」「メロン」等の句、また〈銀河濃し岩波新書得て帰る〉〈わが才を疑ふ夜々の寒灯〉といった句を見みてもまさしく「青年閒石」の存在が作品の中に投影され内在しているといった印象があります。
 
A どことなく芝不器男の作風にも近いものが感じられるところがあるでしょうか。
 
B 確かにそのような雰囲気も若干あるようですね。この時期の閒石の句には〈料理婦に従ふ鵞鳥風光る〉〈病葉と散るその影と地に合ひぬ〉といった句がありますが、それこそ不器男の〈さきだてる鵞鳥踏まじと帰省かな〉〈寒鴉己が影の上におりたちぬ〉を髣髴とさせるところがあります。
 
A 生年を見てみると、2人は同じ1903年生まれです。
 
B もしかしたら、ある意味では閒石は「もう1人の不器男」であったのかもしれませんね。
 
A ただ、閒石の15歳のころから昭和20年までの作品は、戦災により焼失してしまい、ほとんど現存していないそうです。『雪』のあとがきで閒石は〈既往に詠み捨てた俳句は恐らく萬に近く〉あったと書いています。この『雪』に収められている昭和23年以前の作品というのは、ほうぼうから残っていたものをかき集めてようやく成立したものであるそうです。
 
B 焼失してしまった作が一体どのような内容のものであったのかということを考えると、大変残念な気がしますね。それこそその作品の質や、不器男の作と比して果たしてどの程度の内容を誇るものであったのか、など気にかかるところは少なくないです。
 
A しかしながら、不器男と閒石について考えてみると、一方は27歳で亡くなり、一方は89歳まで存えるわけですから、人間の運命というものは本当に不可思議なものであるという他ありませんね。
 
B では、続いて昭和29年(1954年)第2句集『朱明』について見ていきましょう。
 
A この句集ではどちらかというと先の第1句集の作風の延長の上に位置するというか、やや全体的に作品の多くがやや間延びしたもので占められているような印象があるようです。
 
B 若干マンネリズムに陥っているようなきらいがあるようですね。〈秋天の曇れば曇る草の水〉〈水ありて水にも春の星湧きぬ〉〈雪片の水に吸はるるとき迅し〉などを見るとやはり相当「上手い」わけですが、如何にも型通りの俳句といった感じがします。
 
A そういった側面も確かに感じられるところがありますね。ただ、他に〈放射路のひとつの果に秋日落つ〉〈雪の底振子ゆたかに往復す〉〈書万巻ソドムの町は夕焼けぬ〉などといったやや異色ともいうべき句の存在も確認できるところがあります。
 
B 続いて昭和32年(1957年)刊の第3句集の『無刻』について見ていきましょう。
 
A ここに来て作風がやや変化を見せはじめます。
 
B やはりこの作風の変化には、先の句集『朱明』に見られたマンネリズムともいうべき兆候から逃れようという意識も幾分か関与しているのかもしれません。
 
A 優れた作者というものは、当然ながら自らの作者生命における危機意識というものに敏感であると思います。そして、これまでのような作品の繰り返しによって招来するかもしれない退廃の予感というものにはそれこそ強い警戒と抵抗を示すものであるはずです。
 
B 作品を見ると、昭和29年から昭和30年には〈鴉啼く砂丘にて懐中時計とまり〉〈男色や鱗だつ冬松の幹〉、昭和30年から31年には〈毒茸のすべて砕かれしが嗤ふ〉〈冬牡丹悪霊地より躍りいでよ〉〈舎利を壺に金網の餅うち反す〉〈響かんと木の股を越す初蝶や〉〈蓬野の香気あつめし蝮の眼〉〈淡水へはらわた返す泳ぎ去れと〉、昭和31から32年には〈ナフタリン臭き冬服羽音青し〉〈雪どけの水量杣の牙だつ飯〉〈夕焼の暗礁に歯を研ぐ魚族〉〈蜥蜴青く睦むも涸れし泉の底〉などとやはりやや実験的な作風へと変貌してゆくことがわかります。
 
A これは単に作者の旧套からの逸脱への志向というのみではなく、やはり時代的な影響による側面も小さくないのでしょうね。
 
B 昭和29年から昭和32年ですから、「前衛俳句」運動が盛んになってくる時期と重なります。
 
A やはり時代的な影響も少なからずあったわけですね。
 
B これが昭和38年(1963年)の第4句集の『風景』となると、間石の作風はさらに前衛色の強いものとなってゆきます。
 
A この間の昭和33年には、高柳重信の「俳句評論」にも参加することになります。
 
B 『風景』のあとがきには〈永田耕衣、榎本冬一郎、金子兜太、高柳重信、堀葦男、島津亮、鈴木六林男、赤尾兜子らの諸氏をはじめとする多くの畏友、ならびにその周辺にむらがる人々の情熱は、ともすればサロン的といわれてきた私に、しばらくの渋滞もゆるさなかった。〉という記述が見られます。
 
A 作品を見るとそれこそ時代の狂熱のようなものが感じられるところがありますね。しかしながらよく考えてみると、旧派出身の作者が「前衛俳句」に身を投じたわけですから、常識的に考えればなかなか勇気のいる行動であったのではないかという気もするところがあります。
 
B 橋閒石の常に変化を求めてやまない俳人としての作者性と、英文学の学者であったことによる英米の詩論からの影響による結果でもあったのではないかということも考えられそうです。
 
A なるほど。英文学からの影響も考えられるわけですか。
 
B しかしながら、この「前衛俳句」時代の第3句集の『無刻』、そして第4句集の『風景』ともに、どうもあまり面白くないというか、単純に優れた作品がさほど見出せないという憾みがありますね。
 
A 現在の視点から見た場合どうしてもそういうことになってしまうようですね。耕衣や兜太あたりの作品と比べると、いま一つパワー不足であるというか、これらの作者の作品ほど強いエネルギーが作品からは感じられないところがあります。
 
B 一応この句集からは〈吹雪の果の老人絵本めくる〉〈禁猟の森が吸いこむ奔馬白し〉〈階段をのぼる亡父の瞳の豪雨〉〈足の裏崇め清める花地獄〉〈雲ゆくかたへゆく風塵の零れ人〉〈柩出るとき風景に橋かかる〉といった作品を取り上げておきます。
 
A 続いて第5句集の『荒栲』です。この句集は昭和46年(1971)に刊行されました。
 
B この句集は前の句集から約8年間の作品集ということになり、なお実験色が強く、いまだに作者独自の作品境地には至っていないようなところがありますが、それでも〈行春のうしろ姿の艶なりけり〉〈渡り鳥なりしと思う水枕〉〈芹の水生きて途方に暮れいたり〉〈七十の恋の扇面雪降れり〉〈紅梅の裏は険しき父の声〉〈宗論やいもりの腹の花ざかり〉などといった作品には、それこそ後年の作者の作風を予見させるような句がいくつか見られるようになります。
 
A 続いて昭和53年(1978)刊行の第6句集『卯』の作品について見ていきましょう。
 
B この句集となるとある程度完成度が高い作品がいくつか見られるようになってくるようです。
 
A 確かにこのあたりとなると、これまでの実験性と、作者の持つ高い技量とがうまく融合し始めている様子が感取出来るようです。
 
B そのような作品を見ると〈おのずから結目とけし夕霞〉〈なみなみと熱湯はこぶ夕牡丹〉〈若竹の時間を睡りころげたり〉といったあたりということになるでしょうか。
 
A 橋閒石の生涯にわたる句業の中でも、この『卯』の中の作品のいくつかが、もしかしたら最も高い結晶度を誇るものであるということになる、といっても過言ではないかもしれません。
 
B 閒石というと一般的にはやはり第7句集の『和栲』が代表的な句集ということになると思いますけれども。
 
A この『卯』は、句集としての全体的な完成度についてはそれほど高くはないのでしょうが、その中の一部の作品、即ち〈萩の露あつめて耳を洗うべし〉〈わがいのち風花に乗りすべて青し〉〈雪暗く花鳥曼陀羅ふしおがむ〉〈父負うて青海原を沈みゆく〉〈木霊より軽き子を抱く冬隣〉〈白魚のまぼろしや傘ひらくとき〉〈蝶になる途中九憶九光年〉〈雪嘗めて胎蔵界を歩きけり〉〈青鷺が翔ち阿闍梨の名憶い出す〉といったあたりの諸作は、異論もあるかもしれませんが、個人的には閒石の生涯の句業の中でも最も純度の高い透徹したポエジーを内包したものであると思います。これらの作品における張りつめた空気感は今後の作にも見られないものではないでしょうか。
 
B 確かに作品の言葉の硬質な強さにおいては閒石の句業の中でも随一のものであるのかもしれませんね。他の作品には見られない凝縮された清冽なエネルギーの強靭さが感じられるところがあるようです。
 
A では、続いて昭和58年刊の第7句集『和栲』を見てゆきましょう。
 
B この句集が閒石の句集でもっとも有名な作品ということになります。この句集において閒石は第18回蛇笏賞を受賞します。
 
A やはりこの『和栲』における1冊の句集としての全体的な完成度というものは相当に高いものがありますね。単純に秀句が多いというか。
 
B 作品を見ると〈故山我を芹つむ我を忘れしや〉〈はらわたに昼顔ひらく故郷かな〉〈夏風邪をひき色街を通りけり〉〈ひとつ食うてすべての柿を食い終わる〉〈みちのくや餅に搗きこむ二日月〉〈薄着して枡目の恋の二月かな〉〈雁還る幕を揚げてもおろしても〉〈眉しろく虹の裏ゆく旅人よ〉〈空蟬のからくれなゐに砕けたり〉〈露草のつゆの言葉を思うかな〉〈行くほどに秋の橋よりこぼれけり〉〈白山が見え玉乗を忘れめや〉〈階段が無くて海鼠の日暮かな〉〈下町や殊にしたたる女傘〉〈たましいの暗がり峠雪ならん〉〈ふぶく夜や蝶の図鑑を枕もと〉などいくつも優れた句を見出せます。
 
A それこそ「安定感」のようなものが強く感じられますね。
 
B やや老獪でもあるといってもいいのかもしれません。

A 老獪ということなら、初期の頃にも見られたリフレインや対句的な表現も顔を出してくることが確認できます。
 
B 初期のころにおける〈雪降れり沼底よりも雪降れり〉〈枯るるもの枯れて心を身近にす〉〈冬の雨うしろを見ても冬の雨〉〈水ありて水にも春の星湧きぬ〉といった表現が、ここでは、〈故山我を芹つむ我を忘れしや〉〈雉鳴けり四道将軍の雉鳴けり〉〈露草のつゆの言葉を思うかな〉〈雪ふれり生まれぬ先の雪ふれり〉といった表現として再び姿をあらわしてくるようですね。
 
A しかしながら、この『和栲』における作品には、やはり先ほど挙げた『卯』のいくつかの作品ほどの透徹したポエジーの発露はやはり認められないのではないかという気がするように思われます。
 
B 先程の『卯』の句のいくつかについては確かにどこかしら尋常でない雰囲気がありましたね。それに比べるとこれらの諸作はやや「わかりすぎる」というか、やや狙いが「見える」ところがあるような気がしないでもないところがあるようです。
 
A それでも、やはりこれらの作品がある程度優れた成果を示しているという事実は紛れのないものであるのではないでしょうか。
 
B 確かに句集全体として見た場合は、この『和栲』は、『卯』よりも完成度が高いものであるということは間違いのないところでしょうね。
 
A もしかしたら『和栲』は、『卯』の作品とはやや別の位相にある作品群である、と言うことも可能かもしれません。
 
B そういった側面もあるのかもしれませんね。『卯』における「花鳥曼陀羅」「木霊」「九憶九光年」「胎蔵界」「阿闍梨」などという言葉は、『和栲』で使用されている言葉とはやや異なるものであると言うことは少なくとも可能であると思います。
 
A 続いて第10句集である『微光』についてみていきましょう。平成4年刊のものです。
 
B この句集は橋閒石の晩年における句集ということで、その作品はそれこそ全体的にやや箍が緩んできているような印象もないではありませんが、それでも〈噴水にはらわたの無き明るさよ〉〈体内も枯山水の微光かな〉〈芹の水言葉となれば濁るなり〉〈銀河系のとある酒場のヒヤシンス〉などといった優れた作品が確認でき、やはり晩年といえどもなかなかの高水準の句集であるように思われます。
 
A このとき作者は80代ですから、この年齢でこのような清冽な作品を生み出したという事実にはやや驚嘆してしまうところがありますね。
 
B 〈噴水にはらわたの無き明るさよ〉〈体内も枯山水の微光かな〉の清新な「明るさ」、そして〈芹の水言葉となれば濁るなり〉の澄明さには、それこそ作者の澄みわたった詩心をそのまま窺うことができるような思いがします。
 
A 「言葉となれば濁るなり」とは、それこそ作者の言葉に対する認識がその極みへと至り着いたともいうべき表現でしょうか。先ほど、『卯』におけるいくつかの作が橋閒石の生涯における最高作ではないかといったことを言いましたが、こういった『微光』の作品を見ると、ややその甲乙がつけ難くなってくるように感じられるところがあります。
 
B いま取り上げた作品は、それぞれその作品世界の内部に「虚」と「実」といった要素を抱懐しているところがあります。〈銀河系のとある酒場のヒヤシンス〉といった作品を見た場合にしても、そのような虚実の要素を抱懐していることがわかりますね。
 
A 「銀河系」ですから、まるでSFの世界のようでもあり、単純に現実そのものを詠んだものとしても読むことが可能であると思います。
 
B またそのような「虚」と「実」における成果の他にも〈ラテン語の風格にして夏蜜柑〉〈唐辛子そこまで向きにならずとも〉あたりといった、随分と自在な境地に遊ぶような作品も見られます。
 
A さて、橋閒石の作品を見てきました。
 
B 橋閒石の作品の辿った軌跡を見ると、なかなかその作風の起伏というものは、思った以上に激しいものがあるというか、なかなか紆余曲折に富んでいるものであるということがわかりましたね。
 
A 思えば、それこそ、この作者は始め第1句集の頃から、ある程度完成度の高い作品をものにしていたところがあります。
 
B 確かに始めのあたりの句は、現在でも読むに耐える完成度を示しているものであると思います。
 
A そして、そのような一旦完成されてしまった世界から脱却するかのように、その後、「前衛俳句」の動乱へと自ら身を投じ、それに伴う長い試行錯誤の時代を経て、漸く自らの作品境地を獲得するに至るというプロセスが橋間石の歩んだ軌跡ということになるようですね。
 
B なんというか、随分と遠回りして独自の境地へと至り着いたというべきでしょうか。
 
A 『和栲』に〈遠回りして夕顔のひらきけり〉という句のあったことを思い出しました。
 
B こう見ると思った以上に大変な道のりであったということができるようですね。
 
A また、これだけ晩年において数多くの秀句を成すことができた俳人も少ないのではないかという気がします。
 
B そういった部分も含めて橋閒石という俳人は、優れた作者であったということができると思います。


 
選句余滴
 
橋閒石


掌の卵のぬくみ春の霜
 
答案の包重たく夕雲雀
 
朝苺ホメロスの詩を読み初む
 
雪渓を吹き上げられし蝶緋なり
 
星青き夜を温室のメロン熟る
 
銀河濃し岩波新書得て帰る
 
嘶に応ふ嘶月白し
 
痛む歯に鶏頭の雨いつまでも
 
初蝶に一顆の林檎かじりゆく
 
人中に呟く男十二月
 
雪降れり沼底よりも雪降れり
 
雪の底振子ゆたかに往復す
 
書万巻ソドムの町は夕焼けぬ
 
冬牡丹悪霊地より躍りいでよ
 
響かんと木の股を越す初蝶や
 
土を出る蟬に記憶のうすみどり
 
吹雪の果の老人絵本めくる
 
階段をのぼる亡父の瞳の豪雨
 
雲ゆくかたへゆく風塵の零れ人
 
行春のうしろ姿の艶なりけり
 
渡り鳥なりしと思う水枕
 
芹の水生きて途方に暮れいたり
 
初蝶が越す対岸の辷り台
 
七十の恋の扇面雪降れり
 
紅梅の裏は険しき父の声
 
宗論やいもりの腹の花ざかり
 
おのずから結目とけし夕霞
 
なみなみと熱湯はこぶ夕牡丹
 
若竹の時間を睡りころげたり
 
誰彼を秋草と見て澄む日かな
 
雪暗く花鳥曼陀羅ふしおがむ
 
父負うて青海原を沈みゆく
 
木霊より軽き子を抱く冬隣
 
てのひらに仏あそぶや寒に入る
 
白骨の絡み睦みて囀れる
 
雪嘗めて胎蔵界を歩きけり
 
わが恋の色問うなかれ夕蛙
 
春眠や両の手足は地の果に
 
青鷺が翔ち阿闍梨の名憶い出す
 
冬死なば烏百羽は群がるべし
 
雲を踏む確かさに居てつくし煮る
 
はらわたに昼顔ひらく故郷かな
 
夏風邪をひき色街を通りけり
 
みちのくや餅に搗きこむ二日月
 
薄着して枡目の恋の二月かな
 
まどろみのひまも仮面や花の冷
 
露草のつゆの言葉を思うかな
 
行くほどに秋の橋よりこぼれけり
 
白山が見え玉乗を忘れめや
 
下町や殊にしたたる女傘
 
ふるさとや灰の中から冬の鳥
 
たましいの暗がり峠雪ならん
 
ふぶく夜や蝶の図鑑を枕もと
 
あけび割れ狐は親を忘れたり
 
陰干しにせよ魂もぜんまいも
 
時間からこぼれていたり葱坊主
 
紅梅の隣に鍵を預けたり
 
人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人
 
噴水にはらわたの無き明るさよ
 
雪山に頬ずりもして老いんかな
 
菊匂う深きより水湧くごとく
 
ラテン語の風格にして夏蜜柑
 
唐辛子そこまで向きにならずとも
 
細胞のひとつひとつの小春かな
 
枕から外れて秋の頭あり

 
 

俳人の言葉
 
閒石は述懐して、もともと幼少のころから虚実ということに関心が高かったと言い、それが芭蕉の俳諧の精神であると見抜いた。だからこれは、欧風の表現では「仮面と素面」の関係でもあり、虚と実、仮面と素面、つねに一方が他方を包含し、多義的な浮遊性こそ矛盾的合一という確かな一体であることを「雲を踏む確かさ」という名言で把握した。自我意識はほんらいこのような矛盾としてでなければ存在しえない。閒石俳句はこの思想の上に成り立っている。
 
和田悟朗 「橋 閒石の句業」 『白燕』「橋閒石追悼号」平成5年3月 329号より

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2 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様

旧派から出発、温雅な句風を早々に確立し、その後、前衛俳句の影響を受け、晩年の『和栲』において独自の完成に到達するという、橋閒石の生涯全体の流れは共通認識になっているかと思いますが、そのディテールにおける種々相の指摘には感じ入りました。『和栲』以上に『卯』の一部の句に閒石ポエジーの最高潮があるのではないか、『雪』時代のリフレインの手法が『和栲』において再び姿を現しているのでないかなどなど。特に前者は、なかなか簡単に言えることではないと思います。閒石については「豈」に不出来な小論を書いたことがありまして、冨田さんの読みの深さにひき比べ、己のふがいなさに改めて恥じ入ったことです。

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様

私の意見に共鳴していただきありがとうございます。ほっとしました。
ただ、『和栲』以後の作品については、古典など様々なものを踏まえた句が多いようで、私の知識では読み解けないものが少なくないという気がしました。
『和栲』以後の作品については、まだ新たな読みの余地が残っている可能性があるかもしれません。