2010年1月3日日曜日

「遷子を読む」を読む

遷子を読む(39)-3 特別編4
「遷子を読む」を読んで(下)

・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井


●27回/畦塗りにどこかの町の昼花火  『山国』所収
吟:今回も、ややしみじみと(とは、句自体がぼわ〜としていて、深く共感する、と言うのではない、と言う意味です。遷子は微妙なかそけき表現が得意なのですか?)拝見しました。馬酔木に口語表現がはいってきていること、など、はじめてそう言う角度での関心をもちました。また、秋桜子が「べたべたと」などと言う言葉をつかっているとは・・。似合わないなあ(笑)

社会的な関心が大きくなろうとしてもそれを抑制する気もちもつよく、書き言葉の品位をまもろうとしているのでしょうね。

そのエネルギーの衝突が遷子では、農業従事者の(患者の多くの)生活意識への観察となって。数は少ないけど興味深い平易な口語の俳句世界を,表しているとみえます。

最後のほうで、磐井氏が、「どこか」の読み方について、新しい提案のような見方を示されてこれが興味深かった。「いづこ」ではない。仕事中にきこえてくる昼閒の遠花火の音などにはあまりウエイトをかけていない、という見解です。ゆえに、この「どこか」を、重要な語としてうけとめています。

まえの窪田さんは、「どこか」を重視しながら、ここに癒やしの感覚を投じていますが、磐井さんは素っ気ない夢がないですね。(笑)


鑑賞者の感覚と解釈がこのようにわかれているのは、読み手の現在と、詠み手のそのときの状態への、視線の相違なのでしょう。日本語はおもしろいし、多義的です。

筑紫:そうですね、素っ気なく夢がないですね。(笑)
イメージとしてこんなのを思っていたかもしれません。


どこかで春が生れてる

どこかで水がながれ出す

どこかで雲雀が啼いている

どこかで芽の出る音がする

山の三月東風吹いて

どこかで春がうまれてる

この「どこかで」は誰も知らない、しかしどこであってもいい場所。春が生れ、水がながれ、雲雀が啼き、木の芽が出、東風吹いている場所です。

吟:そう言う例で示されてみると、前の、「山深く花野はありて人はゐず」も「どこかで」
の多少具体的なイメージかもしれませんが、いまでもありそうなどこかの場所です。遷子の頭の中の花野は、窓秋の「白い夏野」ではないようです。頭の中のトポスの形象化がユニークでした。

仲:「どこかの」の曖昧さがいいですね。この句の持つどこか間の抜けた雰囲気はこの「どこか」という投げやりな措辞と「昼の花火」という役に立ちそうもない(ちょっと昼行灯に似ている)素材によるところが大きいと思います。畦塗りという大変な仕事とまるで白昼夢のような遠い花火(たぶん音だけ)との対比が面白いですね。畦塗りをしている農夫にとっては花火どころではないでしょうが、それでもちょっと位は手を休めて「どっかで祭かねえ」と呟いたかもしれません。見ている作者はこの田舎にして午下がりのアンニュイな気分を感じ取っているように思いました。

吟:農夫が昼下がりのアンニュイな気分を感じている、というメンタルな構図を作り出しておられる仲さんの感受性はなかなか洒落ていますね。これ、一つの新解釈としていただこう。
前後しますが、私の「どこかで昼花火」への感想は、次のようなコメントです。

●30回/畦塗りにどこかの町の昼花火・山の雪俄かに近し菜を洗ふ
吟:
「遷子俳句の読み会」も、佳境に入ってきた感じがして毎号楽しみにしています。

畦塗りにどこかの町の昼花火  27回
山の雪俄かに近し菜を洗ふ  30回


この「どこかの町の昼花火」と「俄に近し」の所に関する諸氏の読み方が、スリリングでした。

こういう叙景句、もしくは日常詠とか写生に近い内容の措辞をみるときに、いかにもさりげなく説明的に書かれてある言葉に背後の生活者の切実な選択が働いている、と言うことを、磐井氏などが指摘しておられました。

1.「どこかの町の」これは、働く農夫にとっては、手を休めてどこか遠いところを想望しているような風流さはないので、遠くの音を耳にはしているが聞き流している。手近な畦塗りの方に気を取られている。軽い書き方である、と言う解釈がなかなか穿っていておもしろかったです。
でも、わざわざどこかに、と書く以上は、もう少し感興を感じている、と私は取りたいのですが・・。
2.「俄に雪の」は、雪国の気候が変わりやすい。という地域性を云われました(窪田、深谷 氏)。なるほどなあ、と納得しました。ここは生駒信貴山系の谷間にあたる場所です。里山風の地形を利用した住宅地に私は住んでいます。奈良市内よりは高原気候です。だから信州の方々の山の気配は、多少は解ります。しかし若い日にすごした松山市の瀬戸内式気候地帯では、こういう措辞はなかなか実感できない、生み出せない、と言うことも感じました。そう言う風土性に価値を措くならば。その地域ならではの表現が出てくる必要があります。

ところが、磐井氏がまたさらに、ここには、遷子のある種の決心、心理的な切迫感があることを指摘されました。

このあたり、馬酔木の方々に潜在する人間主義の読み方をひきだしていて、面白かったです。が、風土の中から必然化される言葉と、どこに住もうと生じるその時代の個人の内面の言葉はやはりこれは違う、と言う気も致します。(最終的に地上の人間の生きている心の琴線に触れるのであれば、どちらでもいいようですが)。この「俄に」は、読者の気持ちや心理によって、強さが違ってもどちらも正解である、と言うような幅のある言葉遣いだとは、思われませんか?相馬遷子という人格が、生活者としてのそれと俳人としてのものに揺れることがあり、その揺れ幅をあらわしている、というのが、私の感想です。

「一番近いところにすんでいた島田牙城氏が毎日見ている山々を見てこのように感じるかといえばこれまた疑問だと思います。まさに遷子の歩んだ境涯をたどってゆく中で、疎外感と親近感とが融和する一瞬、まさに「俄かに近し」が生まれるのだと思います。」(筑紫磐井)

この二つの句の解釈とポイントの置き方、は確かにその通りです。ここに「俄に」を措いた作者の立ち位置に目をつけられた所は、感じ入りました。同時に、馬酔木調の読み方でも最終的には、この思いに集約してくるのではないかともおもえます。というのは、菜を洗う作業は、あくまで農婦(農夫)のものでしょう?医師である遷子はこういうコトはしなかったはずです。

「俄に」が、この句のポイントであることはちがいないものの、この句では、遷子の気持ちに此処まで強く引きつけて読む要素が、やや薄弱、と考えてはいけないでしょうか?
先の「どこかの町」の解釈は、農夫の心情をよみとった俳人のデリカシィに呼応していると思います。以上、「俄かに」の句と「どこかに」の句の磐井さんの理解について、「ほとんどこうだが、すこし拒否」(笑)というのが私の意見です。如何?

筑紫:客観なんてない、人間という主観を通した客観しかない、ということをあの虚子が言っていました。その意味では「視線」かもしれません、農婦と山々を交互に見比べる視線がなければ1句が立ち上がらないように思えます。このところ窪田さん、仲さんが参加されたことによって、遷子の住んだ佐久の風土がなんとなく判ってきたような気がします。どうでしょうか、こんな風に理解してよいでしょうか。

①平野部の雪はさほど深くありません。佐久市内に住む遷子の生活環境そのものが悪いわけではありません。
②遷子が移ったばかりの時代は、生活環境も作業環境も、当時の佐久に農民は恵まれたものではありませんでした。
③遷子は山間部まで往診することがしばしばありました。
④東京、札幌で暮らした遷子にとって見ると地域格差をはじめとする貧困、短命、医療のみすぼらしさなどを見ることにより、述志の文学としての俳句が形成されます。
⑤にもかかわらず本質的には人間嫌いであり、自然を志向する俳句でした。
⑥このためどっちつかずとなる、微温的俳句が避けられなくもないわけではありませんでした。
⑦俳句で社会を詠む遷子のゆき方が表現法として十分ではないといえるとしても、俳句として適切ではないとはいえないでしょう。というより、遷子が正しければわれわれが間違っているのであり、われわれが正しければ遷子が間違っているといえます。二者択一なのです。われわれの俳句が時流にかなっていて、遷子の俳句が時流にかなっていないのはよく分かります。しかしそれだけで俳句の価値を決めてしまっていいわけではありません。不易流行の芭蕉に近いのはどちらかと問われると、答えを持ち合わせていないのが正直なところなのです。

仲:吟さんのコメントに磐井さんが答えておられる①~⑦についてコメントします。遅れて申し訳ありません。

①そうです。佐久の平野部では積雪は殆どありません。遷子の住んでいた野沢から臼田くらいまでは平野部ですから。ただその少し南へ行くともう山間部の様相を呈してきますので積雪も多くなります。
②たしかに遷子の時代の農村の生活環境はよいものではありませんでした。一例を挙げますと当時佐久地方は全国有数の脳卒中多発地帯でした(今でこそ長寿日本一などと偉そうに言ってますが)。部屋の中の気温の低さ、寒さをしのぐために味噌汁や野沢菜などから大量の塩分を摂取していたこと(塩分は体温を上昇させますから)などが原因でした。浅間総合病院初代院長の吉澤國雄などは保健婦や保健補導員(村のおばちゃん)を動員して一軒一軒回っては味噌汁を1日1杯にするようにとか、塩分を控えましょうとか、炬燵は大きな懐炉に過ぎないので一部屋全体を暖房しなければならないとか指導して回ったのです。
③今でも相馬北医院の先生の許へ山奥の患者さんが通っておられることを知っています。現在は車があるから通院も可能ですが当時は往診しなければ医療を受けられないような場所だったでしょう。
④まさにその通りだと思います。
⑤「人間嫌い」については原さんのご指摘もあり目から鱗の気分でした。但し私としては臨床家を志した者が心の底から人間嫌いでいられるのか疑問です。文芸上の人間嫌いと世間的な意味での人間嫌いとイコールかどうか。勿論医師はすべて人間好きというつもりはありません。私とて患者さんを診て患者さんと話するのは好きですが人間関係を煩わしいと思う気持ちは常にあります。また人間嫌いであっても職業だからと割り切れば開業医を続けられない訳ではありません。しかし…この問題についてはもう少し彼の作品を読み進める中でじっくりと考えて見たいと思います。
⑥「微温的俳句」の意味をもう少し詳しく教えてください。
⑦子規が言ったように俳句で詠んでいけないものは無いと思います。私も努めて社会情勢やそれに対する思いを俳句で詠んで行こうと思っている者の一人です。遷子の社会性俳句(と言えるかどうか)はその後の表われてきた人達のそれからすると不十分に見えるかもしれませんが、そのような俳句を作らざるを得なかった彼の心情に興味がありますしある意味共感できます。

筑紫:丹念なお答えありがとうございます。大体賛同していただけてうれしいです。ご疑問の点2点をお答えします。

⑤どうでしょうか、人間社会的にそつなく仕事をこなしてゆくのと、本質的に人間嫌いは結構同居できるような気もするのですが。患者や家族や俳句仲間と実に楽しげにやっていても、一人個室に入って思索すると人間という存在そのもの(自己も含めて)に対する嫌悪感が生まれることはしばしばありそうな気もします。先日中西さんと話をしていて、実は私も人間嫌いなんです、といったら大笑いをされてしまいました。

この問題は、結構人間性の本質に根ざしているような気がします。もう少し議論を煮詰めたいと思います。

⑥自然ときわめてペシミスティックな両極を行き来を見ていると、

天ざかる鄙に住みけり星祭  『山国』
養花天ひそかに許す懈怠の性
ひそかにてすでに炎天となりゆくも

などはどちらにもぶれ切れていない句のように思えるのです。これを微温といいました。当時の遷子に突き詰めて考える必要はあまりなかったのかもしれませんが、ギリギリまで進めばこの先に何か別の世界がありえたように思えるのです。

能村登四郎がこのあとに詠んだ次のような句があります。一時遷子が向かった方向は、後に登四郎がある種の完成を果たしたように思えてなりません。いってみればそれは遷子の不徹底であったような気がするのです。

はねる蝌蚪口悔しがる性まだ残り 44年『民話』
炎天となる一隅の雲たぎち 43年『枯野の沖』
ひそかにて充つる声ごゑ秋の潮  48年『幻山水』

とは言え、遷子にはもっと目指すべきいくつもの世界を持ち、そちらに開眼してゆくのでしょうが。
【ここから仲さんの「遷子を読む 特別編1」に飛んで読んでいただけるといいと思います】

●(31)一本の木蔭に群れて汗拭ふ  『草枕』

仲:遷子に従軍俳句があったことを今回始めて知りました。しかし余り切迫感のない、従軍というよりは軍隊と一緒に大陸を見てきましたといった感じの句が多い印象です。戦火想望句としては三橋敏雄が十代にしてデビューしたことが有名ですが、実際の戦争の光景を知らない三橋の俳句、例えば

射ち来たる弾道見えずとも低し
砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
そらを撃ち野砲砲身あとずさる
戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ

このような句よりも遷子の俳句の方が戦争から遠い気がします。遷子自身がこのような激しい戦闘場面から遠いところで仕事していたせいもあるのでしょうし、縦令目にしていたとしてもこういう詠み方はできなかったのかもしれません。それでも皆さんが触れているように戦争に行く前の馬酔木調とは全く違う人事句となっている点で一連の従軍俳句は特異です。

この句を従軍中に得たものと知らずに読めばどうなるでしょうか。恐らくは集団で夏山を歩き回るなどの体育会系の行事をしている人達の一瞬の憩いの光景と取るのではないでしょうか。現代のそういう光景を読んだと取ってもそれなりによく出来た俳句だとは思います。

私も深谷さんと同様、従軍俳句の一連の中では

栓とれば水筒に鳴る秋の風

が一番いいと思いました。これとて従軍俳句でなくてもちょっとした登山の強行軍の途中と取ることもできましょう。実際に水筒の栓を取ってそこに入り込む風が音を立てるのを経験した人間でないと詠めない臨場感があります。

筑紫:ごもっともです。ただ、案外こうした淡々としたものが戦争の実態なのであったかな、という発見をした気もしています。勇猛果敢な戦闘、ないし酸鼻な風景は長い戦争のごく一部であって、大方はうんざりする行軍風景なのではないかという気もします。それが常にどこからともなく飛んでくる弾丸による死と裏腹をなしている(実はそんなことはめったにないのですが)ところに戦争の本質があるような気もします。三橋敏雄の句も今読んでみるといかにも戦火想望俳句だなという気がしないでもありません。どちらがリアルな戦争俳句かはよく分からないところです。後年の社会性俳句の問題がここに露呈しているような気がするのですが。

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■関連記事

遷子を読む〔27〕畦塗りにどこかの町の昼花火・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

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