2010年7月18日日曜日

「セレクション俳人」を読む 通行という戦略 ―後記にかえて―・・・外山 一機

「セレクション俳人」を読む
通行という戦略 ―後記にかえて―

                       ・・・外山 一機

少し前に「「俳句以後」の世界」というテーマのシンポジウムがあった。このタイトルを聞いたとき、ずいぶん牧歌的なものだと感じたのを覚えている。正直に言えば、例えば「セレクション俳人」でとりあげられているような俳人たちやそれ以降の若い俳人たちにとって、「俳句以後」について論じることにそれほど意味があるとは思えない。これは決して皮肉や謙遜の意味で言っているのではない。僕たちにとってよりリアルに感じられるのは、「俳句以後」の世界などではなく、俳句が否応なしに僕たちの前にあり続けるという未来の方ではないだろうか。僕たちの絶望は俳句の死などではなく、俳句の緩慢な生にこそある。僕たちにとってより切実な課題は、だから、俳句が目の前にあることに戸惑いを感じるたびに、俳句を選択し続ける根拠をいかに見出すのかということだ。そしてその根拠の発見は自分と俳句との関係をその都度問い直す作業によるほかないのである。

とはいえその一方では、この「根拠」に目を向けずに、さらには目の前にあり続ける俳句に違和感を覚えることさえせずにすませることも十分に可能である。また一方では、俳句に絶望し手を引く者もいるだろう。もはや打ち止めの感のある俳句史を知ってしまえば撤退も勇気ある決断のひとつなのかもしれない。
僕たちが俳句を始めたとき、俳句はすでに新規参入がほとんど不可能なほどに過剰に展開しつつ、しかし一方であまりにも容易く僕たちにたいして手を広げているように見えたものだ。だが手を染めてみれば俳句とはやがて緩慢な絶望であった。いまも僕たちは俳句というゆるやかな絶望のなかにいる。僕たちが出発する場所はここだ。そして僕たちは何度この場所に回帰することになるのだろう。このループはどうやらちょっとやそっとではぬけられそうにない。この場所から脱出しないことを選ぶことが、あるいは正当であるのかもしれないのだ。

前置きが長くなった。本連載の総括に移ろう。「セレクション俳人」シリーズはその名の通り俳人の「選集」である。むろんこの名称には作品の抄本ということと同時に、現在の俳人からの選出という意味もあろう。このシリーズに入った俳人は岸本尚毅、田中裕明、大木あまりなど「ニューウェイブ」の俳人としてデビューを飾った者のほかに、小澤實、正木ゆう子など、そのデビュー時には比較的注目度が低かったものの現在の俳句シーンに大きな影響力を与えている者、あるいは櫂未知子のようにニューウェイブの俳人たちからはやや遅れて登場した者などが選ばれている。

いずれにしても彼らが現在の俳壇において様々な意味で有力視されていることは間違いのないところだろう。たとえば藤田哲史が指摘したように、俳句甲子園を通過した俳人の作品には正木ゆう子の俳句表現からの影響が見られるし、岸本尚毅の方法論を意識的・無意識的にとりこんでいる若手俳人も少なくない。

この企画においてセレクション俳人シリーズの一冊一冊は、いわば俳句についての論考の「種」である。そして、論考となるにせよ作品となるにせよ、次なるものを促すという点において、これらの「種」は、今に生きながらえている数々の古典と全く等しい存在である。

本連載を開始するにあたって藤田は「はじめに」でこのように述べているが、実際、このシリーズに入手した俳人たちの作品こそ、否応なしに僕たちの目の前にあった俳句であった。そしてそれらは、彼ら以前の俳人―三橋敏雄、金子兜太ら戦後の大家や戦前の俳人、あるいは明治、大正期の俳人たち―の作品と戦略的な差異化を図りつつ、その流通においては僕たちの前に殺到したのだった。換言すれば諸々の俳句表現は「とりあえず」互いにフラットな関係で現れたのであって、それらをツリー状に「是正」する知恵を僕たちが身につけたのは事後においてであった。しかしいまやこの知恵の有効性は疑わしくなってきている。

こうした知の形態の変動について、福嶋亮大はクリストファー・アレグザンダーが提案した都市構造を挙げつつ次のように述べている。すなわち、アレグザンダーは「一本の巨大な幹線道路が中心にあって、他の道路はそこに結線するかたちでデザインされている」都市を「ツリー構造」の都市であるとする。一方で、アレグザンダーが提案するのはこれと対比される「セミ・ラティス」型の構造だ。

 たとえば、アレグザンダーが挙げるのは、バークレーの交差点の例である。ドラッグストアとその前に置かれたニューズラック、それに信号機がある。信号が赤のあいだ、通行人はニューズラックの新聞を手にとって眺めるかもしれない。この場合、ドラッグストアとニューズラック(新聞)が一つのまとまりを形成する一方、通行人の介在によって、さらに信号機と新聞が一つのまとまりを形成するだろう。新聞という要素は、ドラッグストアの組み合わせと、信号機との組み合わせの、どちらにも足をかけている。そしてまた、この種の組み合わせは、都市の有機的な流れのなかで原理的にはいくらでも拡大していくだろう。(福嶋亮大「ゲームが考える―美学的なもの」
『神話が考える ネットワーク社会の文化論』青土社、2010)
 
日々大量に生産される俳句を前にしたときに問題となるのはその処理法である。これまでに書かれてきた俳句史はそれらをツリー構造で捉えることによってその交通整理を担ってきた。また今日の俳句評論の多くもこのような俳句史観を前提としている。

この方法はいまだ有効であろう。けれど、そのような捉えかたが実は俳句表現の発展のありようを固定化してしまっているのではないか。現在、俳句の作り手が息苦しさや窮屈さを抱えているとすれば、こうした知のモデルに綻びが見え始めているからではないだろうか。

だからいま僕たちに必要なのは、複数の場に所属するもの同士を短絡させるような方法だ。それはたとえば「セレクション俳人」シリーズを「今に生きながらえている数々の古典と全く等しい存在」として捉えることだ。あるいは、「セレクション俳人」シリーズを「今に生きながらえている数々の古典と全く等しい存在」として捉えうるネットワークのなかにいる存在としての自己に意識的であり続けることだ。僕たちは通行人のように複数の俳句表現に介在していく。その足どりから生まれる俳句評論とはいかなるものなのか―論考はまだ始まったばかりである。

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