2010年7月17日土曜日

筑紫磐井終刊メッセージ

「―俳句空間―豈weekly」の終刊にあたってなすべきこと=通時化


             ・・・豈発行人  筑紫磐井


「週刊俳句」や「―俳句空間―豈weekly」によって俳句の世界が活気づいていることは間違いない。インターネットの効果と呼んでよいだろう。もちろん、インターネットが効果を生む背景には、「週刊俳句」や「―俳句空間―豈weekly」だけでなく、これらとネットワークを構築している多くの個人のブログも相互に影響しあって力を発揮していることは言うまでもない。

しかしこうしたブログが共時的には結社誌以上の影響力を持つ反面(『新撰21』の爆発的な評価はその1つであろう)、通時的(歴史的といってよいであろう)な影響力をどう持てるかはまだ不明である。

『新撰21』を編纂する時、私の視野には今から20年前の若い世代の噴出があり、現に『新撰21』を論じる時にそのことに必ず触れていた。実際当時出た処女句集シリーズ、新鋭句集シリーズや各種セレクションを眺めながらそうした歴史を再構築してみることが出来た。しかし、あと20年後に、この『新撰21』の出た背景は充分理解されるであろうか。『新撰21』の誕生はウェブの影響の中で生まれたのであり、『新撰21』が生まれた瞬間の様々な発言や情報(そして熱情)はおそらく20年後にもはや確認することも出来ない状況となっていることだろう。

個人の意志によって維持されるブログは容易に消滅する。それは今回の「―俳句空間―豈weekly」の終刊でまことに象徴的に示される。「―俳句空間―豈weekly」に保存されたアーカイブも、果たして間違いなく存続するかどうかは分からない。それは個人の善意・悪意を越えてインターネットの宿命だろうと思われる。

とすれば、古風な方法であるが活字にして残すしかない。『新撰21』の経緯を色々なところで私が書いているのもそうした歴史の証言の風化を防ぐためである。ブログで我々の活動を知った遠方の見ず知らずの人が『新撰21』スポンサーとなるのはウェブ時代ならではの事件であったが、活字にしておかなければこうした時代の存在もあっという間に風化するであろう。現在、「―俳句空間―豈weekly」で長期にわたって我々が連載した共同研究「遷子を読む」も、いまは手軽く過去の原稿を読むことが出来るが、それがいつまで続けられるかの保証はないそうである。プロバイダーの都合である日突然アクセスできなくなる可能性もあるらしい。そこで現在これらを活字の冊子本化すべく検討中である。

ただし注意しなければならないのは、できあがった冊子本はブログの「遷子を読む」と大幅に異なっているはずである。ブログの文体を、活字本で維持できるはずがない。そんなことをすれば膨大な頁数を必要とするが、参加者の発言したかったことはもっと簡明に記述できるはずだからである。また、ブログであればこそ書けたいささか責任を欠く文章は各自が評価し活字本にふさわしい品のある文章に書き直すはずである。不正確、挑発的、誤解に基づく超論理的文章は抹殺されるであろう。何のことはないそこに生まれるのは、ブログを契機として生まれた、新しく書き直された深い思索に満ちた活字としての「遷子を読む」でしかない。しかし、それでも活字として残す価値はあると思う。未来の人々は冊子本の向こうに生々しい精神があったことを推測してくれるからだ。現在我々が行おうとしていることはいかに知的産物として生まれたブログ上のアーカイブを、安価に、永続する方法(活字)で後世に残すか、という作業である。安価であることは是非必要だ、無料のインターネットから高価な価値が生まれてはならない。

それでも「―俳句空間―豈weekly」は評論を中心とするブログだからそれを活字化することはまだ工夫の余地がある。問題は、俳句作品のような再利用の困難なブログである。高柳克弘は「いま短詩型であること」(「現代詩手帖」2010年6月号)で「『週刊俳句』や『豈weekly』というホームページでは、基本的に作品発表はおまけみたいなもので、批評に特化しています。そういう現象から考えてもどうも[俳句作品が(筑紫注)]居心地が悪いというのは否めないところかなと思います」と辛辣に述べているのは我々と同じ認識といえるであろう。これはそれぞれのブログ管理者に考えてもらわねばならない。

私の「―俳句空間―豈weekly」で執筆した評論は「遷子を読む」に限らない。多種多様な評論が存在した。これをどうするか。初めから評論として執筆したから、これをばらばらとして一つの体系にまとめることが可能である。と言うよりそのつもりで執筆してきたのだ。おそらく私の次の新しい本の中でその発言は復活するであろう。通常の評論では出来ない、新しい本の執筆の試行をここで行ってみたのである。

私にとって「―俳句空間―豈weekly」とはそうしたものだったと言うことである。そして、「―俳句空間―豈weekly」の終了後、ふたたび「豈」と「海程」の若手によって新しいブログが模索されている。開始時期9月、と早くも予定されている。しかしどのようなものが始まるとしても、上に述べた認識は変わらないであろう。

以上の結論は決してブログに対して悲観的な見方を示しているわけではない。通時化の過程で、早晩ブログが紙媒体の俳句雑誌を規定してゆくことになるのは間違いない(原稿依頼や送稿、編集、校正などが無人化・少人化してゆく。今行っている単行本『超新撰21』の公募作品が短期間で直ちに活字化されるのも、こうしたシステムを部分的に導入したからに他ならない)。その場合の、ブログと雑誌を統合する編集人の徹底したダブルスタンダードぶり(例えば雑誌編集の厳格責任のスタンダードと、ブログ管理の放漫自由なスタンダード)こそが見ものであるということなのである。そして、それに成功しなかった雑誌が順次滅んでゆくのも間違いないことである。
                             2010.7.15.

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